第22代小松工業高等学校長 清丸 亮一
私は今、教職を退職して「石川県立尾小屋鉱山資料館」に勤めています。勤務して以来、今まで携わってきた工業教育にも関連あることから、明治から昭和四十年頃まで栄えた小松市にあった鉱山や、その鉱山技術について勉強しております。そこで実に興味あることや感心させられたり、また驚いたことなど多くの事実を知りました。その話の一つに、「遊泉寺銅山」があり、この中に「旧制小松工業学校」の誕生にまつわる話が出てきます。ここにそれを紹介します。
我が石川県立小松工業高等学校と高知県立高知工業高等学校が一昨年の秋、文武両面にわたる交流活動を、より一層発展させようと、姉妹校の締結をしました。
その、高知県立高知工業高等学校の正門を入ると、突き当たりに小さな庭園があり、そこに二つの胸像が建っている。竹内 綱と竹内明太郎父子の胸像である。
その一つ右側の胸像の標札には、本校創立者 竹内 綱 自由民権運動家、政治家、実業家であった竹内 綱は、明治四十五年、高知県の発展の基礎をつくるため「工業富国基本」の理念から、工業技術者の養成をめざし、私財を投じて私立高知工業学校(現在、県立高知工業高校)を創立した。一八三九(天保十年)~一九二二(大正十一年)とある。
左側の胸像の標札を見ると、本校創立者 竹内明太郎 実業家、政治家、父、綱とともに本校発展に多大なる功績を残した。また、早稲田大学理工科の新設に尽力するなど、産業教育の振興に貢献した。一八六○(万延元年)~一九二八(昭和三年)とある。
ここに紹介した竹内 綱と明太郎父子が高知工業高校の創立者であることは、同校関係者なら知らぬ者はいないと思いますが、綱とも関わりがあるが、とりわけ明太郎は、明治から大正にかけて、小松市の東部にあって、隆盛を極めた遊泉寺銅山の経営にあたり、その後、いまや世界的企業であるコマツ(小松製作所)を創立した人物である。このことは、小松製作所社員でさえも、あまり知られていないのではないだろうか。
さて、ここで紹介した、明太郎は「人づくりこそ、企業の礎であり、国を興す礎でもある」という理念の持ち主であり、このことは小松製作所の前身である小松鉄工所の創業以来、ずっと引き継がれてきているが、企業内の人づくりだけでなく、小松の教育振興とりわけ母校の創建に、大きな貢献を果たすことになったことを紹介します。
それは、明太郎が亡くなってから十年たった昭和十三年、小松製作所時代のことである。当時、石川県では県立工業学校の建設を計画していたが、その立地をめぐって小松市と七尾市が猛烈な誘致合戦を展開していた。最初、形勢は小松市側に不利で、七尾市の方に決まるかに見えた。が、この時に小松製作所が決定的な役割を果たしたのである。県立工業学校をあわや七尾市に持っていかれる寸前に、同製作所が工業学校の建設費二十一万五千円を全額負担することを申し出たのである。し烈を極めた県立工業学校の誘致合戦は、これで断然有利となり、結局、小松市に建設が決まった。
小松製作所のこの英断がなければ、県立工業学校は七尾市に建設されていたかもしれない。同製作所が県立工業学校の建設に誘致に巨額を投じたのは、地元の小松市に工業学校があれば、そこで中堅技術者の養成ができ、企業としても技術者の確保が容易にできるというメリットはあろう。でも、それだけなら小松製作所では従来から、かなりのレベルの技術者教育が企業内でも実施してきている。考えられることは、そうした利害でなく、同製作所に浸透していた明太郎の「人づくり」と「地域の発展に寄与する」という思想が、この英断をもたらしたと思わざるを得ない。
こうして翌昭和十四年、桜木町に県立小松工業学校が誕生したのである。最初の入学者の倍率は、定員の六倍に達したという。その後、学制の変遷・改正等で県立小松高等学校、県立小松実業高等学校を経て、昭和三十八年に現在の打越町に移転拡張し、県立小松工業高等学校として現在に至っている。
私たちの学びのふるさとである小松工業高等学校の創立に関して、見聞したことを述べてきたが、調べれば調べるほど、前述の竹内明太郎という人物に非常に興味を覚えました。
次号で、工業教育の原点とも言える、「竹内明太郎」の理念と功績について紹介したいと思います。