第22代小松工業高等学校長 清丸 亮一
「母校の誕生にまつわる話」では、竹内綱、明太郎親子は二人とも政治家、実業家と紹介したが、今回は竹内明太郎のその実業家像と功績とを合わせ紹介する。
彼は万延元年(一八六0)四国・宿毛に生まれ、明治十九年二六歳の時に、唐津市の芳谷炭鉱経営まで父と生活を共にし、この間大阪では岩崎英学塾で、父と上京後は、中村敬宇先生、中江兆民先生に学んでいる。
二六歳の時に父から、「芳谷炭鉱」の経営を一任された彼は技術革新と合理化に積極的に取組み、機械類は輸入に頼らず、極力内製化しコストダウンを図った。
このために明治二五年には炭鉱付属の鋳物、鍛冶、木型等総合工場を設けた。
彼の経営方針に「必要な機械類等は全て自製、これを他に仰がず」があった。
こうした合理化や技術革新によって採炭量は着実に増加し、父綱の期待に見事に応えた。この後竹内鉱業を設立し、鉱山事業に意欲を燃やし、炭坑や鉱山を次々と入手し事業拡大を図った。
明治三二年から約一年間、西欧で鉱山、機械、造船等の視察と、当時開催中のパリ万博をも視察し、そこで彼我の技術水準の差異、我国技術の遅れを痛感し、技術育成の重要性を再認識した。
「工業富国基」工業こそ国を富ます基。西欧視察でこの言葉を身をもって体験し、貴重な体験を鉱山経営に生かしたことは言うまでもない。
明治三五年には遊泉寺銅山を買収、経営に乗り出す。ここでも、欧米の新技術を導入した近代的生産体制の確立により、全国鉱山関係者の耳目を集めた。
経営は順調であったが、彼の頭には「資源は有限。石炭や銅も何時かは尽きる。鉱脈が奥深くなれば高コストが経営を圧迫し、閉山に追い込まれる惧れあり」との危機感である。「しかし産業革命等を見ても、工業技術は無尽。それどころか熟練度上昇は新技術を生み、生産効率を上げ、新産業創生など無限の可能性を秘めている。
次は機械工業の育成、ポスト鉱業は地域密着の新産業」と、万国博視察後着々と手を打った。その一つが唐津鉄工所である。炭坑付属として明治三九年に発足し、当初は炭坑用機械の補修、製造と唐津港出入の内外石炭運搬船の修理が中心であったが、新工作機械の開発製造を目標に、機械設備完備の明治四四年には、六尺旋盤製造に成功し外販を開始、その後平削盤、万能研削盤等の製造にも着手し、明治大正期に唐津鉄工所は工作機械5社の一つに数えられた。
また小松では、遊泉寺銅山での鉱山用機械製作目的の小松鉄工所を大正六年に設立した。この小松鉄工所開設に備え、機械、冶金技術者を最新技術知識吸収目的で、設備機械、電気機械、電気冶金、ディーゼルエンジン鍛圧機等の調査研究に欧米へと次々に派遣した。
また大正七年には鉄工素材が外国より劣るを知り、機械、工具用特殊鋼材の重要性から国産化を目指し、小松電気製鋼所を設立、特殊鋼の研究試作を始めた。とりわけ機械の重要素材でもあり開発の遅れていた鋳鋼の研究に力を注いだ。
このようにして研究、開発した製品に自信を得、外販は三年後の大正九年である。三年間も製作、開発に時間をかけたのは、機械工業における経営方針、「外部販売は自信の持てる製品」によるからである。同時に事業の心得として、
一、事業の施設はすべからく無駄なきものに。
二、製品は欠点なき完全なものに。
三、研究は一時も怠ってはならぬ。
四、人の養成は将来を考えて努めて多く。
五、将来国産化の見込みをつけて輸出の方途を見極めよ。
六、儲けはその次でよい。
と非常に簡潔明瞭で、今も通用する経営哲学である。
また、唐津、小松鉄工所にしても創設地から動かなかった。「なぜ地方なのか」その理由を『その地方に受けた寄与に報いんがため』『鉱山廃止後におけるその地方の衰退に影響をきたらしめんがため』『優秀な製品、理想的な製品は、特殊な技能ある工手を要す。これには純朴で質実たる地方の子弟を訓練養成することを最良とするため』『国家的見地より、工業の地方分散主義などを主として考え、その地を適当とする』『良品に国境なし、いずれにおいて製作するも問題とならない』としている。
これらが両鉄工所を夫々鉱山隣接の地方都市に置き、そこを出発点とした。さらに小松鉄工所と電気製鋼所を一つにした新生「小松製作所」も小松から動かさなかった理由として『銅山に近く施設、物資、人員等相互の便益が大』『小松駅に隣接、資材、製品輸送の便益が大』『純朴質実忍耐力ある農村出身子弟の確保育成の期待が大』『手取川中心の水力開発が有望で豊富安価な電力供給の期待が大』等であった。
このように、小松周辺労働力の品質、水の豊富さまでを重要視していた。彼が地方都市に固執した理由と合わせて考えると、経営理念が分ろう。現在の日本は、事業所、工場、更に人口までが大都市へ集中し、その過密化の弊害から地方分散が強く叫ばれているが、彼は明治、大正時代に既に予見していたのであろう。
いずれにしろ、小松製作所の創業は、「工業技術の発展こそ国家の発展」という彼の理想企業像の凝縮であり、その理想追求故に厳しい経営状況が続いたが、彼の哲学ならば「それは当たり前、それを気にしては工業技術の発展、国家の発展は望めない」であろう。
ともかく、竹内明太郎という人物は、大変合理的な考えの基、理想主義者でもあったように思われる。
次回は、明太郎が教育においてどのような功績を残したか紹介したい。
いよいよ最終回となり、先にも案内の通り、今回は竹内明太郎が教育に残した功績を書くことにしました。
最初は明太郎が明治十九年に芳谷炭坑の経営を任された後、順調に鉱山が発展すると共に炭坑街も大きくなり、人口も多くなって、炭坑従業員の子供達のための教育機関も必要だろうと、炭坑の中心地に炭坑従業員の子供専用の小学校を開校した。
開校四年後には村立芳谷尋常小学校となっている。芳谷炭坑のあった北波多村の郷土史家は「芳谷炭坑は明太郎によって開発され、村の主要産業として村を潤した。また、炭坑経営ばかりでなく、村の教育にも強い関心を持ち、炭坑街に小学校を設立せしめた。明太郎は優れた経営者であると共に立派な教育者」と評価している。
明太郎の「人創りこそ企業の礎、また国を興す礎でもある」と言う理念は鉱山経営以来、ずっと持ち続けてきたものであろう。芳谷炭坑や遊泉寺銅山の経営に当ってもそうであったが、「企業経営の基本は人創りである」として、特に人材教育には力を入れていた。明治三九年に設立した唐津鉄工所、それより遅れて大正六年に設立した小松鉄工所においても、社是の第一に「人創りを進める」を掲げて、それを実践している。両鉄工所とも設立と同時に社員養成所を鉄工所に設立している。中堅技術者の養成が主目的であったが、「技術の習得は勿論だが、まず一個の人間としての学習も欠かせない。双方が相俟ってこそ一人前の技術者といえる」という明太郎の理想とした技術者の育成を目的としたことは云うまでもなかった。
そのため企業内養成所の当初の授業内容は、午前中は工場の作業に必要な数学、物理、化学、製図、機械工作法、金属材料、英語の他、人間形成に欠かせない道徳教育等にも重点が置かれた。
このように、企業内養成を実践してきた明太郎であるが、それだけでは満足していなかった。そのころには、既により高度な工業技術者を養成する専門機関(学校)の設立を描いていた。それが工科大学設立構想であった。
このため優秀な技術者や学生を、工業技術の習得とレベルアップのために、次々と海外に留学、研修を行わせている。このことは、将来工科大学を設立した時の中心的な教授陣となる人材の養成であり、これを進める一方で、明治三九年頃に工科大学設立の具体的準備に取りかかった。たまたま偶然というか、同じ頃早稲田大学でも理工学部の設置計画が持ち上がっていた。しかし早大側の最大課題は「粒の揃った教授陣をどうやって確保するか」であった。この二つの構想のドッキングには難点があった。早大創立者で総長の大隈重信といえば、明太郎の父綱が所属していた自由党とは対立関係の立憲改進党のリーダーである。明太郎に躊躇いがあったろうに、「先進国に負けない工業教育の早期確立こそ最優先させるべき」と、そんな拘りを捨て、明太郎が育ててきた錚々たる新進学者を挙げて、早大理工学部の教授陣として「寄贈」した。そればかりかその給与も数年間援助したのである。この早大理工学部設立に関しては、明太郎を廻る人物の引き合わせ、その経緯と合わせ実にドラマ的でもある。紙面の都合で割愛することを許されたい。【※なお、理工学部は明治四一年に理工科、高等予科の授業を開始】。
明太郎はまた、「現場の実務にも精通し、高度な技術をも吸収可能な中堅技術者を養成する工業学校が必要」と考えていた。この構想は、早大で実を結んだ工科大学構想とほぼ同時進行の形で、具体化の方向を探っていた。
この工業学校の必要性については、明太郎の郷里高知県でも、明治四十年前後から議論が高まっていた。「高知に産業を興し発展するためには、工業学校を作って工業技術者の養成が喫緊の課題」と説く同郷同級の県議会議員織田信福から明太郎に、「ぜひ、高知に工業学校を創ってくれ」という突然の申し入れもあり、「郷里のためになにかしたい」と考えていた明太郎がこの申し入れを受け入れたことは言うまでもなかった。そして明治四五年に財団法人私立高知工業学校が設立されたのである。創立後五年間で学校資金三十万円【※現在の金銭換算で十億円程度。個人の寄付としては途方も無い金額】を竹内家が寄付し、まさに竹内家が高知工業学校を丸抱えで面倒をみるということであった。このような巨額の資金を投入しての工業学校の設立である。明太郎がいかに工業教育に力を入れていたか、そして郷里の産業振興に情熱を注いでいたかがわかる。
竹内明太郎については、調べれば調べるほど、どれだけ書いても書ききれない。永らく工業教育に携わってきた小生であるが、竹内明太郎の工業教育に対するおもい、その実践を進めた情熱には及ぶべくもなく、ただただ感心するばかりである。(完)
最初は明太郎が明治十九年に芳谷炭坑の経営を任された後、順調に鉱山が発展すると共に炭坑街も大きくなり、人口も多くなって、炭坑従業員の子供達のための教育機関も必要だろうと、炭坑の中心地に炭坑従業員の子供専用の小学校を開校した。
開校四年後には村立芳谷尋常小学校となっている。芳谷炭坑のあった北波多村の郷土史家は「芳谷炭坑は明太郎によって開発され、村の主要産業として村を潤した。また、炭坑経営ばかりでなく、村の教育にも強い関心を持ち、炭坑街に小学校を設立せしめた。明太郎は優れた経営者であると共に立派な教育者」と評価している。
明太郎の「人創りこそ企業の礎、また国を興す礎でもある」と言う理念は鉱山経営以来、ずっと持ち続けてきたものであろう。芳谷炭坑や遊泉寺銅山の経営に当ってもそうであったが、「企業経営の基本は人創りである」として、特に人材教育には力を入れていた。明治三九年に設立した唐津鉄工所、それより遅れて大正六年に設立した小松鉄工所においても、社是の第一に「人創りを進める」を掲げて、それを実践している。両鉄工所とも設立と同時に社員養成所を鉄工所に設立している。中堅技術者の養成が主目的であったが、「技術の習得は勿論だが、まず一個の人間としての学習も欠かせない。双方が相俟ってこそ一人前の技術者といえる」という明太郎の理想とした技術者の育成を目的としたことは云うまでもなかった。
そのため企業内養成所の当初の授業内容は、午前中は工場の作業に必要な数学、物理、化学、製図、機械工作法、金属材料、英語の他、人間形成に欠かせない道徳教育等にも重点が置かれた。
このように、企業内養成を実践してきた明太郎であるが、それだけでは満足していなかった。そのころには、既により高度な工業技術者を養成する専門機関(学校)の設立を描いていた。それが工科大学設立構想であった。
このため優秀な技術者や学生を、工業技術の習得とレベルアップのために、次々と海外に留学、研修を行わせている。このことは、将来工科大学を設立した時の中心的な教授陣となる人材の養成であり、これを進める一方で、明治三九年頃に工科大学設立の具体的準備に取りかかった。たまたま偶然というか、同じ頃早稲田大学でも理工学部の設置計画が持ち上がっていた。しかし早大側の最大課題は「粒の揃った教授陣をどうやって確保するか」であった。この二つの構想のドッキングには難点があった。早大創立者で総長の大隈重信といえば、明太郎の父綱が所属していた自由党とは対立関係の立憲改進党のリーダーである。明太郎に躊躇いがあったろうに、「先進国に負けない工業教育の早期確立こそ最優先させるべき」と、そんな拘りを捨て、明太郎が育ててきた錚々たる新進学者を挙げて、早大理工学部の教授陣として「寄贈」した。そればかりかその給与も数年間援助したのである。この早大理工学部設立に関しては、明太郎を廻る人物の引き合わせ、その経緯と合わせ実にドラマ的でもある。紙面の都合で割愛することを許されたい。【※なお、理工学部は明治四一年に理工科、高等予科の授業を開始】。
明太郎はまた、「現場の実務にも精通し、高度な技術をも吸収可能な中堅技術者を養成する工業学校が必要」と考えていた。この構想は、早大で実を結んだ工科大学構想とほぼ同時進行の形で、具体化の方向を探っていた。
この工業学校の必要性については、明太郎の郷里高知県でも、明治四十年前後から議論が高まっていた。「高知に産業を興し発展するためには、工業学校を作って工業技術者の養成が喫緊の課題」と説く同郷同級の県議会議員織田信福から明太郎に、「ぜひ、高知に工業学校を創ってくれ」という突然の申し入れもあり、「郷里のためになにかしたい」と考えていた明太郎がこの申し入れを受け入れたことは言うまでもなかった。そして明治四五年に財団法人私立高知工業学校が設立されたのである。創立後五年間で学校資金三十万円【※現在の金銭換算で十億円程度。個人の寄付としては途方も無い金額】を竹内家が寄付し、まさに竹内家が高知工業学校を丸抱えで面倒をみるということであった。このような巨額の資金を投入しての工業学校の設立である。明太郎がいかに工業教育に力を入れていたか、そして郷里の産業振興に情熱を注いでいたかがわかる。
竹内明太郎については、調べれば調べるほど、どれだけ書いても書ききれない。永らく工業教育に携わってきた小生であるが、竹内明太郎の工業教育に対するおもい、その実践を進めた情熱には及ぶべくもなく、ただただ感心するばかりである。(完)
注【※】内は編集員の追記及び試算値